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筋肉理論の逆機能――『日常』の表現技法における一考察

 

zaitakuです

今回は、以前の記事で挙げた「筋肉理論」を応用して、

アニメ(漫画)『日常』について考えたことを記事にしてみます

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正直ツマランこと請け合いですので、時間を無駄にしたくない方は回れ右をオススメしまうー


 


■筋肉理論について

めんどいのでスレかブログの記事を読んでね!(てへぺろ
http://apg.blog3.fc2.com/blog-entry-971.html
http://guga.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=4296405




■『日常』のどこに理論を差し挟む余地があるのか?


まずは日常のキャラ絵を見て欲しい。

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ここから何が読み取れるだろうか?

それは以下の3パターンである。




1.声以外のもので伝えようとする比重が高まったとき、絵柄が「重い」
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↑の場合、手の描写に注目


2.逆に、たとえ動作が激しくても、コミュニケーションにおいて声が高いウェイトを占めている場合は、絵柄が「軽い」
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3.ただし、動作が激しくないシーンにおいては絵柄が「重い」

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これは何を意味するのだろうか。

「日常」でググると出てくる「ポストモダン」などというお粗末な言説を再浮上させることは目的としていない。

そうではなく、あくまで筋肉理論の延長として考えている。



つまり、

「筋肉理論が逆コースをたどると『日常』の絵柄ができる」

という仮説だ。





■シュールギャグの宿命

日常においては、「軽いタッチの絵」を「シュールなギャグ」と摺りあわせていかなければならない。

しかし、シュールな手法を取るためには「現実に即した事物」を用いて「非現実的な描写」を作る必要がある。

この時、軽いタッチの絵でそれを演出することには限界が出てくる。



軽いタッチの絵のまま「シュールギャグのテンプレ」をなぞった場合、それはただのユル系作品の延長にとどまる。

真にシュールな構図を作るには、絵柄の面でのブレイクスルーが必要だった。





■単に「軽いタッチの絵」であることからの脱却

そこで導かれるのが、

「体格や四肢の細部を劇画調にする」

という手法になる。





本来、日常系の作品では飛び道具として扱われてきた「人体をリアルに描く」手法である。

これを敢えて正攻法として使っていこうというわけである。

筋肉理論では、「筋肉をデフォルメする」ことを完全に無視した手法、といえるだろう。

そうなってくると、二次元において捨象されるはずの「三次元の汚い部分」が浮き彫りとなる。

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我々が日常に対して感じている「妙な違和感」の根源はここにある。

最もそれを感じられるのは、「手先の動作を誇張している」という所だろう。
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これは、「言葉以外の物で笑わせるための要素」である。

つまりこの手法は、サイレント漫画においても真価を発揮するものといえる。

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ゆるいタッチで完全なサイレント漫画を行うことは難しい。

したがって、身体の動作などノンバーバルコミュニケーションに頼らざるを得なくなる。

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むかし懐かしの無声映画をイメージすればOKだろう。

また、セリフのないアニメ作品(トムとジェリーみたいな)を想像すればより分かりやすいと思う。



ここで『トムとジェリー』と異なるのは、

「顔(=絵柄)と肢体を調和させていない」

という点だ。

分かりづらく言うと、筋肉をデフォルメすることなしに絵を書いているのに等しい。

この演出によって、さらに「シュールさ」を獲得することに成功したのだ。

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■シュールさの追求とギャグとしての限界

しかしながら、こうした技術的ブレイクスルーには限界がある。

それは、「シュールの絵柄」と「日常系の絵柄」が最終的には融合しないということだ。



一度こうした作風が確立してくると、単に日常系ギャグで攻めた場合、その面白さが希釈される。

なぜなら、シュールギャグの方がインパクトが強いからだ。



一方、シュールな作風を続けていけば、読者は常に「超現実」たるシュールな手法のもたらす「違和感」に苛まれる。

「読者が置いて行かれる」感覚を味わうとしたら、この事が原因と考えられる。

シュルレアリスムを追求した結果、「三次元的な現実」を引き受けすぎてしまった。

この事が、ギャグマンガの前提条件となる要素にまで侵入してくれば、もはや日常は「ギャグマンガ」と呼べなくなるだろう。

結局、筋肉理論の逆コースをたどるという手法は「二次元の前提条件を覆す」ということにつながる。

つまり「二次元のユル系の絵はこうである」という「二次の安心感」が失われてしまったのである。



「ギャグ」が、我々の持つ現実の諸条件(ステレオタイプといってもいい)を固定した上で、

そのステレオタイプを「少しだけ」逸脱するところに面白みを感じるものだとすれば、

ギャグに必要なのは、ある種、「現実とはこうである」というステレオタイプとしての「三次の安心感」といえる。

しかし、こうした安心感を根底から覆されると、それは「ギャグ」として認識されづらくなるのではないだろうか。


確かに日常は、その手法によって新しい道を開拓した。

しかしそれと引き換えに、人の認知レベルで違和感を生じさせてしまうことになった。

日常が持つ違和感や、ギャグマンガと形容できるか否かの限界が見えているように感じられるのは、

筋肉理論の逆機能を利用したことに端を発するものだと考える。



(キリッ


 
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