仁義無き戦い ~相互直通の末路~
事が起こったのは1957(昭和32)年。
運輸政策審議会(現:交通政策審議会)が都市計画2号線として、「日比谷線」を建設する方針を決定。
運行を行うのは帝都高速度交通営団(=営団地下鉄)だったのですが、開業後に都営浅草線―京成押上線の例に続き、私鉄との間で「相互直通運転」を行うことになりました。
直通相手は、中目黒側で東急東横線と、北千住側で東武伊勢崎線とすることで決定。
さて、
この3線を走行するため、車両には統一された規格が必要でした。
ここで紛争勃発!!
東武は『20m車(※1両の端から端までの長さが)』による運行を提案。
一方東急は当時自社線内で20m車を運用しておらず、『18m車』での運行を主張。
完全に対立する両社に挟まれた
ここで営団に決断させたのがコレ↓
![]() | 東京オリンピック [DVD] (2004/06/25) ドキュメンタリー映画 商品詳細を見る |
そう、東京五輪!
1964(昭和39)年開催のこの行事に間に合わせるため、営団は用地買収・建設を急ぐ必要が有りました。
東急が主張する「18m車」ならばルート上に(道路下に造るため)急曲線が在ってもさほど問題ではなく、また用地買収も容易に行えるため、営団もこっちに折れます。
渋々東武側も「18m車」で合意し、建設はスタート!
そして1964年、晴れて全線開通となり、東武・営団・東急の3社に渡る相互直通が始まったのでした・・・・・・
が、
運行が始まるやいなや、六本木や霞ヶ関、更には銀座等を通る日比谷線は大・混・雑!
当初は4両編成で運行していたものが、今となっては8両編成に(これが限界)!
18mの小型車という事もあり、混雑率は現在でも高い水準を維持しています。
さらに、
東急でもこの後「20m車」が標準となり、
18mの日比谷線直通車はただただ厄介なだけの存在に!
自分が主張した規格により自分の会社内での運用に難が出るという、何という本末転倒w
この一件は現在まで禍根を残し、
東武ファン「だからTOQは先見性が無い」
東急ファン「あの時点ではやむを得ない」
という新たな火種を生むのでしたw (最後はどうでもいい説)
補足:あずにゃん誕生日おめでとうね!

- 関連記事
-
- どうにかならんのかねぇ~、大門君! (2010/11/16)
- JR東日本の12月ダイヤ改正を検証する! (2010/11/14)
- 仁義無き戦い ~相互直通の末路~ (2010/11/11)
- 仁義無き戦い ~日光路の覇権は何処~ (2010/11/09)
- けいはん!! (2010/11/01)
| 鉄道 | 15:24 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑
あたりめ(08/30)
名無しのGA研究会(08/20)
16000系(03/17)
名無しのGA研究会(12/09)
名無しのGA研究会(12/09)
名無しのGA研究会(08/30)
名無し(08/01)
いっくん(03/02)
バイパー(02/28)
CHAKE(02/12)