群馬大学GA研究会 なんでもにっき

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つぶやき

きしめんです。調子にのってまた書きました。
少し日本陸軍について語ろうと思います。よく、軍オタからは空気扱い、歴史学者からはファシズムの元凶(実際そのとおり)とされている日本陸軍。その彼らの歴史と実態について語ります。
そもそも、日本陸軍の編制史を、少なくとも第一次世界大戦後から追っていきますと、奴らが乏しい予算の中から
それでも当時としては必要最低限の装備を整えていったのが理解できる。

編成は、まず運用ドクトリンと操典が先に存在し、それを最も効率よく実現するために組織化されるものです。
第一次世界大戦後の日本陸軍は、徒歩歩兵による浸透突破を主とした運用思想の元に編成されておりました。
そのため、小隊ごとに1丁の軽機関銃と1門の擲弾筒が配備され、小隊長に射撃開始権限が付与され、
それまでの中隊単位での敵との火力戦を主とした運用思想とは全く別の軍隊へと改変されていったのです。

実際、海軍の戦備充実に膨大な予算が食われなければ、もっと早い時点で三単位師団化や自動車化が進捗した
可能性が高いのですが、なにしろ装備の更新にえらい時間がかかり、しかも大陸中国への軍事活動が頻繁に
発生して貴重な予算が戦費として消費されていったわけです。そして、こうした予算不足が後のノモンハン事変の悲劇につながりました。

そうした状況下であっても、主力となる自動火器は開発が進められて配備が進んでいますし、また野戦砲兵の
更新も出来る限りの努力をもって進められていたわけです。実際、日華事変の発生時には、各歩兵連隊に山砲が
1個中隊4門、歩兵大隊に大隊砲が2門と速射砲が2門、重機関銃が8丁、各小隊に軽機関銃が1丁と擲弾筒が1門
配備されるに至っていました。これは、当時の貧乏陸軍としては並々ならぬ努力の結果であり、こうした火力発揮を
念頭に置いた編成指向の努力があってこそ、第二次上海事変から南京陥落までのあの突破戦闘の成功が
達成されたわけです。
しかし、それでも欧米列強の前ではそのような努力もたいしたことはなく、太平洋戦争では米軍に敗北しました。
それは、まず大砲1門あたりの弾薬量にあります。なぜなら、日本軍の1門あたり多くても100発という数字に対して、米軍は1門あたり2000発が標準量であり、状況によっては、これより用意されます。
また、戦車の質も日本の戦車は米軍と違い基礎治金技術の差により装甲・スピード・火力・耐久性すべての面で劣っていました。また、日本軍の場合自動車普及率の差から、運転経験のある兵が極端に少なく、戦車兵自体がとても貴重でした。
さらに、日本軍の場合よく知られるように将官が兵站や前線の様子に疎くこれが火砲や戦車を運営する上で、常に重くのしかかりました。
(あとがき)すいません。ここまで、日本陸軍について語りましたが作者は海軍のほうが好きです。後、間違いがあっても気にしないでください。いつか、海軍についても語りたいです。
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| ミリタリー・歴史 | 00:36 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

何という文字のデカさwwwwwwwww

どうでもいいけど、最初に名乗ろうぜ。

| zaitaku | 2010/06/11 08:20 | URL |















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