PUELLA MAGI and ABSOLUTE GUARDIAN
今回の考察において比較対象としたのは、
・ ガメラ(「ガメラ3 -邪神〈イリス〉覚醒」より)
・ 暁美ほむら(「魔法少女まどか☆マギカ」より)
片やカルト的人気を誇る特撮映画の怪獣、片や魔法少女物の前提を覆した作品のキーキャラクターと、一見共通項など見出せそうにない両者であるが、
その行動 ・ 立ち位置に奇妙なまでの類似を見出す事が出来るのである。
【作品導入部】
●ガメラの場合

レギオンの襲来から3年―
ギャオスなどの巨大生物は日本のみならず、世界規模で目撃されるようになる。
その脅威が日増しに強くなる一方で、世間ではガメラにも厳しい目が向けられるようになる。
敵を葬り去るためとは言え、人間側に発生する被害が余りに大き過ぎるのだ。
「本当にガメラは人間の味方なのか? 寧ろ敵なのでは?」
ギャオス ・ ハイパーを倒した際の渋谷壊滅以降、この風潮は加速度的に広まっていく。
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前作、「ガメラ2 -レギオン襲来」において最終的に人間と共闘したはずのガメラ。
その立ち位置がさも “敵” であるかのようになってしまっている。
(尤も前作最後において、ガメラは「人間の味方」ではなく「生態系の守護者」なのではないかという考えが表明されてはいた)
そもそも
「幾ら正義の味方の怪獣でも、悪の怪獣を倒すために街中で戦ったら一般市民が犠牲になるのではないか?」、「何故日本だけに怪獣が現れるのか?」といった怪獣映画を観て持ち易い疑問に挑戦した作品だけあって、
特に前者の意味において、ガメラを単純な “正義の怪獣” には見せない、ともすれば “人間の敵” に見せるよう脚本 ・ 画作り両面で工夫が取られている。
●ほむらの場合

他人を寄せ付けない感のある謎の転校生。
それが彼女の第一印象。
転校初日から鹿目まどかに対し注意を向け、彼女と親しげにするキュゥベえには明確な「敵意」を向ける。
忠告めいた意味深な台詞と、感情を殆ど露わにしないドライさ。
他の魔法少女達とは距離を置いており、底が知れないという事もあって、周囲から不信感を抱かれていくほむら。
果たして彼女の真の目的とは―
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登場当初から怪しい雰囲気を醸し出しているキャラクター。
作中序盤では、まどかや美樹さやかの先輩で魔法少女でもある巴マミと比較される。
明るく、如何にも「頼りがいのある良い先輩」のオーラを放つマミに対し、口数も少なく「ミステリアス」を地で行くほむらは、その反対に極めて怪しく見えるようになっている。
特にそのマミが魔女に殺される第3話においては、半ばマミを “見殺す” 格好となり、また動揺し落涙するまどか達を尻目に冷静にグリーフシードを回収した事などにより、さやかからは嫌悪される存在となってしまう。
序盤はキュゥべえの怪しい描写も目立つが、ほむらもまどか達の「味方」ではないというスタンスで描かれる。
それが明快に現れているのが、作画における眼の描き方や影の付け方だろう。
さて、この導入部における類似点。
それは言わずもがな、ガメラとほむらの立ち位置。
もう少し掘り下げて言うなら、周囲からの「評価」と言っても良い。
この場合、ガメラ ・ ほむら両者に明確な敵性意志は存在しない。
また、周囲の評価に囚われず純粋に彼等を見極めようとする(或いは訝しみつつも嫌悪は抱かない)人々の存在も、両者に共通して存在するファクターと言える。
「ガメラ3」で言えば長峰真弓や草薙浅黄、「まどか☆マギカ」で言えば鹿目まどかだろうか。
にも関わらず彼等のイメージは悪化していく。
その中で劇中全ての出来事を平行して観る事が出来る視聴者は、或る意味上記の人々と同じ印象を持つ事になる。
劇中でのメジャーとなる見方と、自らの持つイメージとの齟齬。
これも共通している事柄と言えなくもない。
【中盤以降】
●ガメラの場合

政府 ・ 自衛隊も、ガメラをギャオス以上の脅威として見るようになる。
その間に、ガメラに両親を殺された(と思い込んでいる)少女 ・ 比良坂綾奈の育てていた生物が巨大化。 人間を襲うようになる。
“イリス” と呼ばれたその生物は、駆逐すべく展開した自衛隊をあしらいながら移動。
自らを成体として「完成」させるべく、綾奈を求めて京都へ向かう。
人間からの攻撃を受けつつもイリスに立ち向かうガメラ。
決戦の地 ・ 京都駅。
ガメラを信じる浅黄とイリスと共にガメラを殺そうとする綾奈。
綾奈の恨みを乗せた手甲はガメラの胸を貫いてしまうが・・・・・・
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ギャオスの変異体と目されるイリスの出現が、物語のターニング ・ ポイントとなる。
ギャオス、ガメラに次ぎ、新たに出現した驚異に手を拱く人間達。
中盤最大の見所、もとい注目すべきシーンがある。
イリスに威嚇攻撃を加えたものの、逆に反撃を受け危うい状況となっていた航空自衛隊のF-15Jを、飛来したガメラが「救った」場面だ。
括弧書きとしたのはそれがどちらにも捉えられるからで、
雲を切り裂きイリスを押しのけて出現したのは、「人間を助けよう」という意図の現れにも思えるし、ただ単にたまたまそこに出現しただけという風に割切った見方も出来よう。
実はこれと似たようなシーンが序盤の渋谷でのシーンにも見られ、そこではギャオス ・ ハイパーの超音波メスから子供を庇おうとガメラが自らの手でそれを防ぐ(ように見える)動作を取っている。
良くも悪くも、見方によってガメラの印象が変化するのだ。
一方イリスは終始 “美しく” 描かれる。 幻想的なまでにだ。
その標榜はかえって「終末」を意識させるものとして、上手く機能する。
ギリシア神話における虹の女神を由来とする名前は伊達でないという事か。
●ほむらの場合

徐々に明らかになるキュゥべえの「本音」。
それに踊らされるがままのまどか達。
マミの代役 ・ 佐倉杏子と同盟を組みつつも、決して心の底では手を組もうとはしない。
そんなほむらの感情が表に出されたのは、やはりまどかの前だった。
ほむらは、この先確実に訪れるであろう「ワルプルギスの夜」による絶望的状況、そこに至る道程からまどかを救うべく時間跳躍を繰り返していた。
その際に味わってきた幾重もの絶望、まどかとの “別れ” が彼女を変えていった。
もう、昔のように笑って会話を交える事すら出来なくなっている。
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それまで意図的にオミットされて来たほむらの「感情」が、徐々に露わになっていく。
まどかがさやかのソウルジェムを投げ捨てた際には、滅多に見られないような “焦り” の表情を浮かべた。
それでもその後は淡々と、「魔法少女の現実」をシビアに伝えている辺りは、まだ感情を覆い隠すだけの冷静さがあったという事だろうか。
しかしその余裕も、
これまでに味わった何度もの破滅、度重なる忠告にも言う事を聞いてくれないまどかへの苛立ち、自分の身を案じてくれるまどかの優しさ ・ 温かさ、それを撥ね付けなくてはならない事への苦悩・・・・・・
それら全てが繰り返してきた時間の分積み重なる事で、容易く決壊してしまう。
本当に自分の取っている行動は正しいのか?
迷いながらも、ただ一途に進み続ける事しか出来ない彼女の姿は、何処か痛々しい。
しかし、事実もうそれだけが彼女の「存在理由」なのだ。
中盤以降における類似点。
これは大きく2つに区切って見ていきたいと思う。
■ “X” との関係
このXには、ガメラ ・ ほむら双方にとって彼等の行動を左右するとも言える存在が入る。
もうお分かりだろうが、これはガメラにとっては「人間」であり、ほむらにとっては「まどか」である。
まずガメラ。
ガメラは、前作「-レギオン襲来」における仙台での復活時、人間とのコンタクトを図るための勾玉を全て自壊させた。
この行動は「人間を断ち切るため」のものと考えられたが、
謎のマッドサイエンティスト ・ 倉田真也の見解によれば、それでもガメラは「人間を見切れずにいる」ようである。
これは、まずガメラ自身が超古代文明(アトランティス)により生み出された、言わば “人の子” であるという事。 そして、仙台でガメラの復活を願ったのはやはり人間であるという事の2つから編み出される主張だ。
この説は正鵠を射ており、
倉田の言うようにこれがガメラ最大の「弱点」であるかはともかくとして、人間と一定の距離を取りつつもやはり完全に見捨てる事は出来ない、ともすれば助けようとするガメラの内情を劇中では見る事が出来る。
一方のほむら。
ガメラとは異なり、彼女にとってのXであるまどかは完全に「守るべき」存在だ。
そもそもそれが、彼女を魔法少女とした動機でもある。
では、そんな彼女とまどかは近しい関係かと言うと、そのようには見えない。
まどかを救おうとすればする程、時間跳躍をすればする程、
ほむらとまどかの間は離れていく。
全てはまどか本人を破滅へと向かわせないための施策 ・ 忠告なのに、当の本人にはその意図を理解しては貰えない。 素直にその意図を話せばどうにかなるという程、事は単純ではなかった。
このように、ガメラとほむら双方が抱えるXとの “微妙な距離” 。
詰めるに詰められない、かと言って断ち切る訳にもいかない距離関係。
Xに対する立場には相違があるにも関わらず、大局的に見たその関係性は似通っている。
■孤独な闘い
もう一つはこの点。
ガメラもほむらも、共闘する存在が居ない。
ガメラは「-レギオン襲来」のクライマックスにおいて人間と共闘するものの、寧ろこれが例外的と言うべきシーンであって、第1作「ガメラ -大怪獣空中決戦」から「-邪神〈イリス〉覚醒」に至るまで、人間側はガメラに対し微妙な見方を根底から変えてはいない。
上述した、イリスに襲われていたF-15J戦闘機をガメラが助けるシーンも、
「ガメラ掃討を優先すべき」との考えから直後にペトリオットを喰らうという、手痛い “しっぺ返し” を人間側に与えられている。
劇中最後のJR京都駅内での戦闘でも、台風の影響で(良くも悪くも)人間が手出し出来ない状況となり、最後までイリスに対し単騎での戦闘を強いられていた。
ほむらも常に一人だ。
否、この言い方には若干の語弊がある。 魔法少女になった当初などでは、他の魔法少女達と共闘する姿を見受ける事が出来る。
しかし、キュゥべえの真の狙いを話しても誰にも信じて貰えず、或いは仲間同士で殺し合いになったりと、何度行っても良い結果に辿り着かなかった。
また、まどか本人が魔法少女となった世界では最終的にまどか自身がワルプルギスの夜を超える魔女と化してしまう事から、まどかと共闘するなど以ての外。
「もう誰にも頼らない。 誰に分かって貰う必要も無い」
この台詞に裏打ちされるように、ほむらは必然的に単身での戦闘を余儀なくされる。
最終的にアニメ本筋となった世界(時間軸)では、ワルプルギスの夜との戦いに備えて杏子を仲間に引き入れてはいたが、「保険」程度の考えだったのかもしれない。
その上杏子もその前に死亡してしまっていたため、結局は自らだけで迎え撃っていた。
【終盤~エンディング】
●ガメラの場合

一時戦闘不能、半死という状況にまで追い込まれたガメラだが辛うじて復活。
右腕を失いながらも、 “バニシング ・ フィスト” なる必殺技でイリスを爆散させる事に成功する。
そしてその左腕には、イリスに取り込まれ融合寸前だった綾奈の姿が・・・
綾奈も危篤の状態にあったが、ガメラが超自然的エネルギーである “マナ” を使う事で蘇生。
「どうして私を助けたの」という綾奈の問いに、ガメラはただ優しい視線を送るだけであった。
喜びもつかの間、日本政府の下に世界各国から、ギャオスの群れらしき飛行体が日本に向かっているという報告が入る。
政府 ・ 自衛隊は攻撃目標をガメラからギャオスに変更。 総力戦を決意する。
ガメラは再び闘いへと身を投じる。
満身創痍、自らと人類の存亡を賭けた文字通り “最後の闘い” へ・・・・・・
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一応の「完結編」として製作されたため、全体的にラストを意識させる作りが散見される。
(興行的にも余り奮わなかったため、事実シリーズ最終作となった)
それまで半分 “敵” としてのイメージが形作られていたため厳しい表情にしか見えなかったガメラの顔が、綾奈救出後には優しいものに見えるのは、人間のガメラに対する見方の変化を暗示しているようにも思える。
そして最後、炎の京都市街を歩んで行くガメラ。
胸はイリスによって開けられた傷穴が、更に右腕はイリスの手甲の呪縛を退けるため自ら切断と、非常に痛々しい姿のままであるが、その姿は何処か頼もしくもある。
「ガメラは独りじゃないわ」と長峰が言うように、今度は孤独な闘いではない。
綾奈を始め、人間達も付いているのだ。
最後に大きな咆吼を残し、ガメラの姿は炎の中へと消える。
●ほむらの場合

ほむらはまどかに対し全てを打ち明ける。
溜め込んできた気持ちが溢れ出した瞬間だった。
そして「ワルプルギスの夜」が来る。
ほむらは時間停止魔法と数多の武器火力で攻撃を加えるが、効果は無いに等しい。
またも「正しい出口」への道からは外れてしまったのだ。
再び時を遡ろうとするほむらだが、結局は自らの行動がまどかの因果を増やしているだけだったと気付いてしまい、ソウルジェムを失望の漆黒へと染めていく・・・
しかしそこにまどかが現れる。
魔法少女となったまどかは、「願い」により宇宙の因果律を書き換え、新たに魔女の居ない宇宙が再編される。
結果魔女の居ない世界となったが、呪い全てが消え去った訳ではない。
それでもほむらは「この世界で」闘い続ける。
かつて確かに存在した、たった一人の友達の言葉を胸に。
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連続放送された10話以降は、まさに「怒濤の展開」と呼ぶに相応しいものとなった。
最終話となる第12話終了後は、しばし考え込んでしまったのを今でも覚えている。
その内容からか、日本に止まらず世界中の視聴者が考察 ・ 解釈している様子は、圧巻の一言に尽きる。
放送中に発生した東日本大震災への対応からか、
放送日が大幅にズレ込み、他の'10年冬アニメ作品と被らなかったのは、結果的にかえってこの作品を多くの視聴者の脳裏に印象付ける事となった。
結果的にほむらはやはりまどかに救われる。
元々これが話の構想だったようだが、この「まどか ・ ほむらどちらの視点に立って見ても物語が成立する」という製作のロジック、
簡潔に言うなら、「まどか ・ ほむら双方が主人公たり得る」点。
これには正直目を見張るものがあったし、
各界の著名人も唸らせる話の導線、原動力なのではないか。
ここでの類似、
それは終盤も終盤、まさに「ラストカット」にある。
「ガメラ3」、「まどか☆マギカ」両者とも、
“これ以降も(作品世界の)物語は続く” ようなシーンで幕を閉じる。
また更に言うなら、両者とも決して “グッドエンディングではない” 終わり方をしている。
より重要なのは後者で、
ガメラの場合、
イリスとの戦闘で身体はもはや満身創痍、限界寸前だ。
追い打ちを掛けるかのように飛来するギャオスの群れは無数とも言える多さ。
台風の雨と燃える市街の炎の中を突き進むガメラだが、その際ガメラの顔を伝う雨が「涙」のように見えるシーンがある。 大谷幸氏の音楽も相まって、悲壮感が漂う。
果たしてこの後、ガメラはギャオスとの闘いに勝利を収める事が出来るだろうか?
或いは、そのように思えるだろうか?
ほむらの場合、
まどかの力により魔女は消滅するも、新たに「魔獣」が生まれる。
魔法少女としてのほむらの闘いは終わりが見えないが、それでもまどかの遺した “希望” を胸に、彼女は弓を引き続ける。
こちらは幾分ガメラよりは希望を持たせる印象を受けるが、
それでも「グッドエンディングか?」と問われると、流石に答えに詰まるだろう。
そもそものほむらの願いは、「まどかを守る事」。
この観点に沿って考えると、最終話におけるほむらとまどかの状態は決して「グッド」であるようには思えない。
その事を彼女自身が望んだからとは言え、まどかという存在は(少なくとも実体的には)この世界から消滅してしまっているし、嫌な言い方をすればほむら自身も、「まどかが居ない世界」を半分諦めて許容してしまっているようにも見える。
勿論、ほむらがこの世界をどう思っているかについては憶測の域を出ず、かなり歪んだ見解でもあるので一般論としては扱わないが、客観的に見て余り芳しくない状況である事は疑いようがない。
ここから先は個人的主観になるが、
このように「ラストをグッドエンディングで締めない作品」は、日本に多く見られるように思う。
例えば「巨人の星」の星飛雄馬。
彼は編み出した「大リーグボール」なる魔球が次々と打ち崩され、元々の球質が軽いという先天的なものとも闘い、実の父 ・ 一徹までも敵に回してプロ野球生活を続けたが、
最終的に腕を壊し、選手生命を絶たれてしまう。
(その後右腕を使って復帰する続編も描かれているが)
また、「あしたのジョー」の矢吹丈。
ライバルであった力石徹に敗れ、その上力石は無理な減量が祟りリング上で息を引き取る。
その後世界の強者達と死闘を繰り広げ、遂には世界チャンピオンの座を賭け最強のボクサー ・ ホセとぶつかるジョー。
パンチドランカーに冒されていたジョーは、善戦むなしく判定負けを喫し敗れ去る。
そして有名な “真っ白に燃え尽きた” ラストを迎える。
もう一つ、かの黒澤明監督の不朽の名作「七人の侍」。
盗賊と化した野武士の一団から、百姓に依頼された「雇われ侍」である7人が村を守るべく奮闘する時代劇であるが、
時代劇の作品にありがちな単純な勧善懲悪とはならず、
村を守る事自体は成功するものの、7人の内4人が戦死し生き残った者達の認識としても「負け戦」だとして、幕を閉じる。
「巨人の星」と「あしたのジョー」は同じ梶原一騎氏原作の作品であるから、例として挙げるには不適切なのかもしれないが、「あしたのジョー」のラストは作画のちばてつや氏が原作を大幅に変更して描いたものであり、その意味では問題は無いと考える。
さて、何故このようなスタイルを取る日本の作品が多いのか。
逆を言うなら、海外、特に欧米に何故この手の作風が見られないのか。
美的意識を例える際に、
「西欧では精緻なバラを美の象徴とするが、日本では散りゆく桜を美の象徴とする」という表現がある。
散りゆく桜は所謂 “滅びの象徴” 。
滅び=死である訳で、本来忌避されて然るべきもののように思える。
しかし、こと日本においては近年話題となった映画「おくりびと」のように、直接的にその手のテーマを扱った作品すら珍しくはない。
欧米、端的に言ってハリウッド映画にそのような作品が見られないのは、
向こうの認識としては映画はあくまで「エンターテインメント」であって、観客が率直に求めるニーズ(バッドエンディングよりはグッドエンディングを嗜好する)に沿えば、結果として日本のような作品が “製作し難い” 環境が生まれる事となるためではなかろうか。
つまり、「ハリウッド ・ システム」の根本から来るものなのだ。
一方で日本でも映画は、そうした観客(のニーズ)を無視出来る訳ではない。
興行成績や売上が重要視されるのは同じ話だ。
それでもバッドエンディング調の作品が製作されるのは何故か?
ここで注目すべきは、決して日本人はバッドエンディング、或いは少なくともグッドではないエンディングを観て、楽しんでいる訳ではないという事。
人間が本能的に持っている「破滅への期待」ではないが、
どちらかと言えば破滅 ・ 終焉に向かう展開を目にして、それを擬似的に味わっている、体感しているのではないだろうか?
こう考えるならば、日本において擬似的体感を柱とするコンテンツ産業が著しく発展した事も頷ける。
ではその土壌となったものは何だったのか?
一時は単純に太平洋戦争の敗戦といった「負ける事」に対する記憶、思い入れのようなものが強く日本人の精神性に作用しているのかとも考えたが、
元を辿れば「滅びの美学」は、かの「平家物語」などにも見出せる。
ものの「あはれ」を説いた日本人の美学、またその土壌は、簡単に精神性という言葉で一括りに出来ない複雑さを覚える。
明確な答えとはなっていないかもしれないが、
日本人は完全なバッドエンディングそれ自体ではなく、その後に続く「余韻」を楽しんでいる。
結局の所それを支える土壌は不明のままだが、擬似的体感に基づき余韻を味わう・・・ そんな文化が日本には根付いている。 そう思えてならない。
この意味では「ガメラ3 -邪神〈イリス〉覚醒」も、「魔法少女まどか☆マギカ」も、
生み出されるべくして生み出された、純日本的な作品と言う事が出来るのであろう。 (了)
ガメラとほむらの比較研究から、最終的には映画論めいた話に・・・・・・ww
本当はもう少し小綺麗にまとめたかった訳ですが、見ての通りとなりましたw
「まどか☆マギカ」って深いねぇ・・・(白目
これは以前やった、 『「魔法少女まどか☆マギカ」を違った側面から考察してみようシリーズ』 の第2弾と言える代物です(ドヤ
もう放送から大分経ちますが、このような様々な側面から作品を考察する事は面白いので、オススメです! 皆さんも是非やってみて下さい! 暇な時にでも!

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